S p u t n i k 0 0 1

ビショップは嬉しそうに走り出した。すこし暑くて潮の匂いがする。僕もつられて走り出す。あたかも重力を感じないかのように足は軽く、僕等を海辺へと運んだ。何軒もの古びた家々を通りすぎ、地図もないままビショップは走る。真っ赤なサーフボードの置いてある小さな店の角を右に曲がる。
「ナイト、海だ」
ビショップの嬉しそうな声。僕は目を見開いた。海は青くなんてなかった。美しくもなかった。ただ、規則正しく波が砂をさらっていた。浜辺のすぐ傍を車の通る道が一本通っていて、そこは時たま黒い煙を吐く車が走って行った。
「ビショップ…これが海?」
「貝殻、気をつけて。足切っちゃうかもしれないから。」
浜辺は白い砂ではなかった。黒と灰色を足したような色をしていた。それはいつか見た東京の空似にていた。ビショップは革靴と黒の靴下を脱ぐと、制服のズボンを膝下まで捲し上げた。そして、僕にも素足になるように促した。靴を脱いで靴下を脱ぐ。湿った砂の感触が足の裏に纏わり付いて来る。
「ナイト、世界は本当はこんなかたちをしているんだよ。」
ビショップは笑って波打ち際へと進んだ。残された靴と靴下は既にうっすら砂を被っている。風の強い日なのだ。大きな黒い鳥が1羽、退屈そうに海藻をついばんでいた。その黒い鳥の赤い瞳は世界の全てを知っているように見えた。羽根を使える者は世界に退屈してしまうのかもしれない。新しい事は時として残酷だ。今の僕のように、笑うビショップのように。黙ってビショップに続く。水は少し冷たい。まだ夏は始まったばかりだった。ビショップの細い腕を掴んで水を蹴散らして歩く。途中ビショップは沖の方を見たり、何か言ったりしていたけれど、僕にはあまり聞き取れなかった。黒い鳥は何処かへと去った。浜辺の前の道も通る車は1台もない。世界は僕等のものだった。


鎌倉の海///チェスはまったく判りません…























S p u t n i k 0 0 2

小さなパソコンの画面の向こうで彼は生きている。
「もう、外へは出ないよ。」
「それってすごく寂しいことじゃない?外には君を傷付ける人なんていないというのに。」
「ナイト、僕はただ疲れているだけなんだ。」
休みが欲しいのだよ、とメッセンジャーはキングの言葉を文字にした。青い背景が妙に心を落ち着かせない。時刻は午前2時。キングの夜行性は2年前から変わらない。僕はそれがすこし嬉しくもあり、不安でもあった。出来ることならキングと多くの時間を共にしたかった。キングは僕の憧れであり、教師であり、何より王であった。次に何を打てば良いのか迷っていると、キングの指が動き出した。
「ナイト、僕はたぶん、本当は変化を恐れるだけの人間なんだ。ここから出るのが恐ろしい。世間がそれは現代のこどもの心が病んでいるせいだと言っても、別にそういう訳じゃない。ただ、僕は億秒なんだよ。」
「それは何かと理由をつけたがる現代人へのあてつけ?」
「…たぶんね。」
画面の向こうで微笑を浮かべるキングの顔が浮かんだ。だけどそれがキングなのか、僕には判らない。もう随分とキングには会っていなかった。顔も声も届かないメッセンジャーの中でしか僕はキングに会っていない。ただひとつキングの髪が綺麗な金髪であったことを覚えている。僕はその金髪の美しさをとても気に入っていた。まだキングが僕と同じ制服を着て街を歩いていた時のことを思い出す。僕にはその時間だけが大切だった頃があった。
「明日も学校ヘ行くの?」
キングが不意にそう言った。僕はまだ過去の時間に浸っていたかったけれど、仕方なくキーボードを叩く。
「うん、ビショップと放課後新宿へ行くつもり。」
「人の多い街だね。」
新宿の雑踏を思い浮かべようとする。けれど、あまり詳しくない街の残像はすこしもリアルではなかった。そうだね、と打って僕は窓の外を見た。綺麗な満月が出ている。非の打ち所のない、完璧な満月だった。
「キング、月が出ている。満月。」
「…僕にはもう見えないよ。もう、外へは出ない。」
キングが自らを嘲笑しているように思えた。すこし間を置いてキーボードを叩く。
「キング、僕はもう眠るね。」
「そう。おやすみ、ナイト。」
「おやすみなさい、キング。」
サインアウトを済ませてパソコンの電源を切る。辺りは静かになった。唯一の光源だったパソコンが切られ、そこは暗闇となった。ベッドに潜り込んで目を強く瞑る。そこにはひとり、同じように暗い部屋でキーボードを打つキングがいた。小さくパソコンの電子音が聞こえる。その姿に僕は何故だかとても安心して、そしたらもう、意識は深い眠りの方へと落ちて行った。


メッセンジャー///本当は一番変化を恐れているのはナイトで、いつまでもキングの友達を自分だけにしておきたいという我侭を持っているのかもしれない























S p u t n i k 0 0 3

青い空が好きだった。非凡さは望まなかった。僕は昔からそういう趣向を持っていた。だけど、ポーンに会った時だけはその非凡さに憧れた。明らかに染めた茶色の髪と、ワインレッドのアコーディオン。白いシャツに黒のズボンとネクタイ。顔立ちが美しく、不思議と彼の奏でる音は心地好かった。彼は正式な教育は受けていないと言ったけれど、英語とイタリア語を流暢に話した。
彼と出会ったのは夏の暑い午後。煉瓦造りの塀に寄りかかって彼は気だるそうに煙草を蒸かしていた。きっと暑かったせいだ。その姿が、あの時の僕の目に妙に焼き付いて離れなかった。
「普段はどうしてるの。」
「…家にはいない。泊めてくれるひとなら、沢山居るから。」
「お金を貰っているという事?」
ポーンは目を瞑って煙を吐いた。そして、煙草を足で揉み消して下水の流れる小さな穴に落とした。
「俺の音楽、聞いてみたくはない?」
ポーンが僕の質問に答えなかったのはたぶん、僕の質問が的を射ていたからだ。それから、僕はポーンの奏でる音を聞いていた。アコーディオンという楽器の音をきちんと聞いたのはあれが初めてだった。
「秋に大検を受ける。そしたらヴェネツィアへ行くんだ。知り合いが音楽院のアコーディオン科の事を教えてくれた。とても環境が良いって。」
「ヴェネツィア…僕にはトーマス・マンのイメージしかないな。」
「『ヴェニスに死す』、映画も小説も読んだよ。」
「僕にはとてもとおい国に思える…。」
目を瞑って行った事のない国を思い浮かべる。運河を周る渡し舟。サン・マルコ広場の鳩たち。運河を渡るための小さな橋。細い裏路地。その路地でポーンがアコーディオンを弾いている。誰も気には留めないけれど、僕が聴いている。ポーンは僕が聴いてくれるからそれでいいと言って笑う。僕がぼうっとしていると、ポーンの携帯が鳴った。ポーンは何かを短く話して仕事が入ったと言った。
「来週はまた来る?」
「うん、塾無いし。」
じゃあまた、と笑顔で言ってポーンは去って行った。僕もポーンに背を向けて歩き出す。夏の日差しと木々の細かい影たち。遠くの灼熱のアスファルトにふと、水のようなものが見えた。逃げ水だ。水の都ヴェネツィアは、どんなに歩いてみても、僕には遠いままだった。


水の都///逃げ水…蜃気楼の一種。強い日差しで、舗装道路の前方に水たまりがあるようで、近づくとまた遠のいて見える現象/広辞苑























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