ひとつ何か特別なものを愛する力を持てば、それだけ無駄な気がした。
ただ、喪失するその一瞬を恐れるあまりに。











気紛れで久しぶりに出た剣術稽古は妙に息苦しい感じがして嫌だった。 かつて、自分が目で絶えず追い続けた人はもう道場の何処を探しても見付からない。 思えばそれが恋だと信じたのは、あの人の遊びに自分がただひとりで浮かれていた せいなのかもしれない。あの頃、自分は土方さんには何でも捧げていた。彼の必要としないものまで、 しつこく、ただ必要とされたい一心で捧げた。そうして抱かれた初めての夜は、涙が出るほど嬉しさに 震えた。
「今日はこれまで!」
道場主の声にはっとする。最近はこうして茫然と時間を過ごす事が増えてきた。しかも血気盛んな 男達の入り乱れるこんな道場で茫然とするのは、大分きているようだ。大して汗もかかなかったが、 いつあの人が来ても良いようにシャワーを浴びに道場を出る。明後日、なんて約束をしたけれど 彼の予定は常に流動している。予定が変わる事はしばしばあった。足どりが重たいのが自分でも判る。 貧血なのか、少し目の回るような錯覚を覚えたりもした。梅雨は嫌いだった。じめじめとしていて、 自分にはそれがとてもじれったい気候に思えたのだ。最も、雨にトラウマがあるというのが 一番の理由だと言えば、それはそうなのだけれど。
「あ、沖田さん…」
風呂へ続く廊下を足早に歩いていると、向こうから山崎が小さな歩幅で歩いて来るのが見えた。 山崎は何かを言い掛けて、しかし、躊躇っていた。自分はたまに山崎のこういう所に苛立ちを覚えた。 多分、言葉を選んでゆっくりと話す山崎を心の底でどこか正しいと認めているせいなのだと思う。
「何でィ。言うなら早く言えよ。」
「土方さんが」
「ああ、メモなら見たから。」
「そうじゃなくて…!」
立ち去ろうとする自分を山崎は振り返って呼び止める様に叫んだ。心なしか、焦りのようなものを 含んだ声だ。
「その事じゃなくて、暇があれば何時でも良いから副長室に来る様にと…。真選組の事みたいです。」
土方さんがそんな風な呼び方をするのは珍しかった。



シャワーを浴びた後、自室に戻ると、土方さんからまたメモが来ていた。とにかく早く来るようにと。 嫌な胸騒ぎがする。当てたくもないが、こう言った時の自分の勘はよく当たるのだ。仕方なく 浴衣に羽織りを羽織って冷たい廊下を副長室へと走る。日はとうに沈んで、多分平隊士は今頃夕食の 時間なのだろう。隣りの棟からは米を炊く白い煙が空に伸びていた。雨こそ降らないものの、 昼にたっぷりと水を吸い込んだ地面が空気を冷え込ませているように思えた。副長室に辿り着いた 頃には、足は熱を忘れていた。それでも冷たい板の床に膝を折って、外から静かに声を掛ける。
「土方さん。」
ほとんど間も無くすっと襖は開いた。無言のまま腕を引き込まれる。引き込まれた部屋の中は 暖かかった。
「土方さん、何かあったんですかィ?」
そのまま抱きしめようとする土方さんをかわす為にあえて質問を投げかける。土方さんは 少し渋ったような顔をしたが、すぐに真面目な表情になって掴んでいた手を離した。
「攘夷派が蜂起した。」
「…そんなの」
いつものようにやっつければ良い。そう言おうとして、口を止めた。そんな軽い問題ならば 土方さんがわざわざ自分を呼び出す筈がない。何かまずい事があるのだ。 土方さんは視線を下に向けたまま続けた。
「まだはっきりとはしてねェんだが、奴らの後ろに茶斗蘭星を中心とした連合軍がついたらしい。」
「…それは、つまりそう簡単に敵う相手ではないと?」
「そういう、事になる。」
土方さんの言葉はひとつひとつが重たかった。重たく自分に圧し掛かってくるようだった。
「最近は幕府の要人が天導衆の奴らで生め尽くされているからな。 それを面白く思わない他の星の天人が、 攘夷という理念を利用して幕府をひっくり返そうとしているんだろう。」
「…で、どうするんですかィ。」
「北へ向かう。」
北へ。その言葉を聞いた途端に、何かが崩れた音が聞こえた。いや、崩れたんじゃない。 これは終わりの音かもしれない。自分達の主人が幕府である以上、真選組の守るべきものは 天導衆の役人どもだ。
「北は天導衆の総本山やら何やら多いからな。勢力を立て直すって事だ。」
「…。」
「なあ…総悟。」
「…。」
「もう、道はねェんだ。」
「…。」
「ここまで、だよ。」











静かに自分の耳に響くその音は、やはり終わりの音以外の何物でもなかった。
今まで真実から目を背けてきた自分への、これが報いなのかな。










さがる  →→→002








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